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小説「渚の処方箋」1話①

第一回:境界の潮目

 

アトリエ渚は、蔵前にあった。
隅田川沿いの通りから一本入った路地。川そのものは直接見えないが、空気の重さと風の巡り方で、水面が近いことは肌が知っている。潮の満ち引きに呼応するように、街の湿度は刻一刻と形を変えていた。
真壁は蔵前駅から歩いてきた。

ーーー橋を渡らないで良かった。

この界隈は仕事で何度か訪れたことがあるが、川の流れをまともに眺めてしまうと、胸の奥にある澱がかき乱され、歩みが不確かに逡巡することを知っていたから。

「渚」という名前が耳の奥にこびりついたのは、半年前のことで、取引先との会食の席で、誰かが酔客特有の不明瞭な口調で言った。
「香水を作らない調香師が、蔵前にいるんだ。彼女の作る匂いは、人を『過去』へ連れて行くらしい」
詳しい説明はなかった。ただ、場所と名前だけが、真壁の欠落した記憶の隙間に滑り込んだ。

五年前、あの夏に何があったのか。事実はデータとして覚えているが、その時の感情の体温や、空気の重さが、まるごと揮発してしまっている。そのアトリエの噂を聞いてから、日毎に揮発した記憶が気になり始めていた。

通りから少し外れた場所に、主張のない字体で「Atelier 渚」とだけ書かれた真鍮の看板を見つけた。それは客を招くための記号というより、覚悟を決めて来た者のための、静かな目印のように見えた。

引き戸を開けると、不自然なほどの「無」が真壁を迎えた。匂いがしないわけではない。だが、空間を支配する主役がいない。天井近くで低く唸る換気装置、吸気口に仕込まれた活性炭フィルターが、外界の空気や川の湿り気を執拗に削ぎ落としている。ここは、匂いによって世界を再構築するための、清潔な空白だった。

作業台の前に立つ女性が、顔を上げた。
「どうぞ」
白衣ではなく、動きやすさを優先した灰色のシャツ。袖口のわずかな擦れが、彼女が「芸術家」ではなく「職人」であることを示していた。

「はじめまして。ご連絡した真壁です」
真壁は促されるまま、簡素な椅子に腰を下ろした。目の前の棚には、軽く千はあるだろう遮光瓶が並んでいる。
「調香師の志乃です」
彼女はペンを手に取り、真壁の「今」を観察するように視線を向けた。その眼差しは鋭いが、感情の混じりけがない。
「無理に話さなくて大丈夫です。ここは言葉で説明する場所ではありませんから」

 

真壁は膝の上で組んだ指を、無意識に組み直した。自分の身体が、どこに重心を置けば正解なのかを測りかねている。
「五年ほど、記憶の輪郭がぼやけている時期があります」
「思い出せない、ということですか?」
「いえ」
 真壁は即座に訂正した。
「事実は覚えています。ですが、思い出そうとすると、音と匂いだけが先に立ち上がるんです。映像が、そのあとに追いついてこない。まるで音や匂いが映像を霧の中に隠しているみたいに。そのせいで、日常の判断に時間がかかります。何かを決める前に、その場所が安全かどうか、足元を何度も確認しないと動けないんです」

志乃は小さく頷いた。同情もなければ、驚きもしない。ただ、真壁から発せられる微かな拒絶の匂いを受け取っているようだった。

彼女は音もなく立ち上がり、棚の前へ移動した。迷いのない指先が、三つの遮光瓶を選び出す。

「今日は、何も調合しません」
志乃が差し出したのは、ムエット(試香紙)ではない。縁の厚い、小さな磁器の器だ。
「一つ目です」
蓋が開けられた瞬間、部屋の空気が鋭く締まった。スポイトで一滴器にたらし、真壁に渡した。真壁は慎重に、肺の奥まで吸い込んだ。
「……冷たい」
「温度ではありませんね」
「ええ。冷たさというより、輪郭です。自分が今、どこに立っているのかが、急にはっきりしました」

志乃は何も言わず、二つ目の器を差し出す。今度は、重く、粘り気のある匂いだった。
「土の底に沈んでいくような……。悪くはありませんが、ここに留まりすぎて、一歩も動けなくなる気がします」

三つ目の匂いを吸い込んだとき、真壁の視界の端で、色が微かに震えた。
「出口が見える。でも、一度外に出たら、もう二度とここには戻れない。そんな予感のする匂いだ」

志乃は三つの器を元の位置に戻した。
「順序を整えただけです。あなたは今、自分が『立てる』ことを確認した。それだけで十分です。このまま調合してしまうと、今のあなたには刺激が強いため、過去に引きずり込まれて、日常に戻れなくなる可能性があります」

 

その時、表の引き戸が乱暴に開いた。湿った川風が室内に流れ込み、志乃が作り上げた静寂の均衡を、鮮やかに切り裂いた。
「相変わらず、慎重だな。志乃」
入ってきたのは、ラフなジャケットに、やけに重厚な革靴を履いた男だった。彼は室内の空気を一度だけ深く吸い込み、真壁に向かって不敵に微笑んだ。
「初めまして。キャプテンDだ。彼女が沈黙で守ろうとしたものを、つい言葉で台無しにしてしまうのが俺の仕事さ」

真壁は、新しく現れた闖入者と、変わらず静謐な志乃を見比べた。
アトリエの外では、再び墨田川の湿った風が吹き始めている。
「また、来ます」
それは、真壁がこの半年で初めて下した、迷いのない判断だった。真壁は闖入者とすれ違いざまに感じた華やかな残り香を感じながら、アトリエを辞した。


それから数日後の朝、真壁はいつものように大手広告代理店のオフィスにいた。全面ガラス張りのフロアには、遮光カーテンを透過した均一な光が満ち、数百台のPCが発する微かな熱と、様々な匂いが混じり合った「清潔な事務作業」の空気が漂っている。
かつてはその効率の象徴とも言える空間が、真壁にとっては最も呼吸のしやすい場所だった。だが今は少し違う。

「真壁さん、飲料メーカーのコピー案です」
後輩が持ってきた資料には、『弾ける夏、永遠の輝きを』といった、手垢のついたフレーズが並んでいた。以前なら即座に赤を入れていただろう。だが、真壁は動けなかった。
夏の匂い。それを「弾ける」といった中身のない言葉でラベル貼りすることへの、生理的な拒絶感が込み上げてくる。

−−−志乃は、決して匂いを言葉で殺さなかった。

真壁は無意識に、検索窓に「キャプテンD」と打ち込んでみた。

 

【Captain D’s Fragrance Fragment:名もなき渚にて】(抜粋)

香水とは、いわば「魂に纏うドレス」だ。

​愛おしい記憶をパウダリーなベールで包み、勇気が必要な朝には凛としたシトラスを纏う。調香師が紡ぐ香りは、人生という舞台を彩る至高の演出であり、私はその光を誰よりも愛している。

​だが、蔵前の静かな路地裏のアトリエは、その魔法とは一線を画す場所。

そこにあるのは、夢を売る調香ではない。

水底のような静謐さに満ちたその空間で、彼女はただ、一滴の妥協もなく「事実」だけを抽出する。

​先日、私はそこで一人の男が剥き出しの自分と対面する瞬間を共にした。彼女が差し出したのは、彼を飾る香料ではなく、彼の存在そのものを形作る逃れようのない輪郭だった。

​世の香水が明日を生きるための「希望」であるなら、彼女のそれは、己を直視するための「真実」という名の劇薬だ。

​私はこれからも、この「渚」に打ち上げられる事象を、私の言葉で記録し続けようと思う。

 

モニター越しに、真壁は喉の渇きを覚えた。Dは志乃の行為を肯定し、それを記述できる自分の言葉を信じ切っている。その饒舌さが、今は真壁にとって唯一の、外の世界と繋がる命綱のように思えた。
自動販売機のコーヒーを一口含んだとき、自分の中の「空白」が、さらに鋭い形を成して広がっていくのが分かった。
−−−あのアトリエに戻らなければならない。たとえそこにあるのが、今の自分を壊してしまう毒であったとしても。

(第二回に続く)