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小説「渚の処方箋」1話②

第二回:言語化する傍観者

 

二度目にアトリエ渚を訪れたとき、真壁の足取りは前回よりも重かった。
蔵前の路地に入ると、肌に纏わりつく湿度が、まるで記憶の澱のように重く感じられる。一度自覚してしまった「空白」は、埋めようとすればするほど、その縁から冷たい風を噴き出していた。

引き戸を開けると換気装置の低音。天井の隅で低く唸り続けるその音は、静寂を際立たせるための重奏のように聞こえた。それは、思考の断片を一つひとつ吸い込み、濾過していく装置の拍動だ。真壁の耳の奥で、自らの鼓動がその機械的なリズムに同調し始める。血が巡る音と、空気が入れ替わる音。その境界が曖昧になるにつれ、日常という名のノイズが、剥離紙を剥がすように静かに剥がれ落ちていった。

キャプテンDが、カウンターで琥珀色のリキッドが入った小さなアンプルを弄んでいる。窓から差し込む斜光が、彼のジャケットの鋭い裁断を浮き彫りにしていた。

部屋の空気は、磨き上げられた硝子のように鋭利で、かつ重い。外の湿気が入り口で厳格に拒絶されているせいで、室内の酸素は不自然なほど純化されている。呼吸をするたび、肺の奥が微かな冷たさに驚き、収縮する。

「よう、真壁。あのあと、よく眠れたか?」
Dが立ち上がった瞬間、アトリエが守ってきた「無」の結界が、少し歪んだ。仄かな琥珀色の匂い。
「……おかげさまで。自分の足元を確認する時間は増えました」
「それはいい。志乃が前回お前に調合しなかったのは、ブレーキを渡すためだ。だが、いつまでも停車しているわけにはいかないだろう? エンジンはもう、かかっているんだから」

志乃は作業台から一歩も動かず、二人のやり取りを無視するように、一本の褐色瓶を天井にかざしていた。
彼女が瓶を置く際、ワークテーブルとガラスが触れ合う、カチ、という微かな、けれど乾いた音。その音の余韻が、無機質な壁に反射して消えるまでのわずかな空白。
「D、言葉を混ぜないで。彼の匂いが濁る」
「濁るんじゃない、彩りが加わると言ってほしいね。いいか、真壁。志乃は慎重すぎるんだ。匂いは記憶の鍵だが、その鍵を回すには『言葉』という力技が必要なときもある」

Dは真壁に歩み寄り、ポケットから一枚の紙片を取り出した。
「例えば――『太陽が湿気と絡み合った匂い』。これを嗅いで、お前は何を思う?」

真壁は目を閉じた。途端に、鼻腔の奥が熱くなる。
「……アスファルトの熱。通り雨のあとの、むせ返るような緑。誰かが、隣で笑っていたような気がします。でも、顔が見えない。声も聞こえない」
「惜しいな。あと少しで映像が繋がりそうだ。その『誰か』は、もっと近くにいたはずだぜ」

「そこまでです」
志乃の声が、鋭く場を制した。
志乃が瓶を動かすたびに生じるわずかな空気の揺らぎさえ、真壁の頬には、誰かが秘密を囁きかけたときのような、実体を持った震えとして伝わってきた。彼女の手には、いつの間にか小さな透明ガラスの小瓶が握られていた。
「真壁さん。Dの言葉に引きずられないでください。彼は香りを消費するために言葉にしますが、私の仕事は、あなた自身の感覚で記憶と再会するの促すことです」

志乃は瓶の蓋を開け、蓋を真壁の鼻先に近づけた。
それは、特定の植物の香りではなかった。古い紙束の匂い、あるいは、潮風に長年晒された木材の、乾ききった匂い。
「これは、かつてあなたが持っていたはずの『静止した時間』の欠片です。言葉で飾る前の、ただの事実」

真壁がその香りを吸い込んだ瞬間、視界の端で、色が爆発した。
鮮やかな、痛いほどの青。それは墨田川の色か、あるいはもっと遠い場所の空の色か。
「あ……」
声が漏れる。だが、その映像は一瞬で霧散し、再び無機質なアトリエの風景が戻ってきた。換気装置の低音が、再び支配権を取り戻す。

「今の……......は何ですか........」
「あなたの記憶が、匂いに触れて震えただけです。まだ形を成してはいけない。でもきっかけは与えてくれると思います」

「おい、毒を盛るには少し早すぎるんじゃないか、志乃」

Dは真壁の取り乱した顔を一瞥し、棚の方向へ満足げに視線を投げた。まるで毒味役が毒の効き目を確かめるような、冷ややかでありながらも温かな口調で言い放つ。彼は真壁の混乱を放置したまま、志乃の方へゆっくりと歩み寄った。

「志乃、お前の作り出す『事実』は、時折こうして人を焼き尽くす。だが、その焼き跡こそがこの場所の価値なんだろうな」

志乃はDの言葉に驚く様子もなく、ただ小さく溜息をついた。
「毒を盛っているわけではありません。彼が自分で選んだ道です」

「そうか。なら、あとの解毒も彼自身に委ねるべきだな。まあ俺は傍観者だからこれ以上は語らないが......」Dは真壁に向き直り、小さく会釈した。

「今日はここで止めましょう。これ以上は毒になりそうです」

志乃は瓶を棚の奥へと隠した。その動作に伴う衣擦れの音さえ、今の真壁には巨大な意味を持つ記号のように響いた。

 

アトリエを出るとき、真壁の背中にDの声が追いかけてきた。
「次は、志乃の『処方』が始まる。楽しみにしてるぜ」

外に出ると、夕闇が蔵前の街を塗りつぶし始めていた。
真壁の心臓は、先ほど見た「青」の残像で、以前よりも激しく脈打っている。
自分の中にいた「誰か」。
Dが言葉で暴き、志乃が沈黙で守ろうとしたその存在が、真壁の空洞の中で、逃れようのない重みを持ち始めていた。

 

アトリエを出た真壁を待っていたのは、夜の蔵前が吐き出す、あまりに多すぎる情報の奔流だった。
道端に置かれたゴミ袋のすえた匂い、排気ガスの焦げた熱、通り過ぎる誰かが纏う安価なフローラル。これまでは背景のノイズに過ぎなかったそれらが、今は鋭い棘となって真壁の鼻腔を突く。志乃の「無」の空間で純化された彼の感覚は、世界の雑駁(ざっぱく)さに耐えられなくなっていた。

 

翌日、オフィスでの会議は、真壁にとって拷問に近いものとなった。
「夏の思い出を、全世代が共感できる爽やかな香りで表現する」というコンセプトが議論されていた。クリエイターたちが「ソーダの弾ける感じ」「ひまわり畑の記憶」といった、広告的な、あまりに広告的な言葉を空中に並べていく。
だが、真壁の脳裏に焼き付いているのは、アトリエで嗅いだあの「青」だ。
古い紙束と、乾ききった木材。それらが引き連れてきた、名付けようのない、けれど胸が締め付けられるほど切実な青い色彩。

−−−そんな、記号みたいな夏じゃなかった。

突如として、喉の奥に「麦茶のわずかな金属の味」が蘇った。
それはかつて、誰かの隣で、言葉にならないまま飲み込んだ時間の味だ。
「真壁さん? 意見を聞かせてもらえますか」
部長の問いかけに、真壁は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。自分が今、何を言っても、それは大切な記憶の死体に安っぽい化粧を施すような、卑しい行為に思えたからだ。

その夜、真壁は自室で一人、PCの画面を眺めていた。
検索履歴には、キャプテンDのブログが残り、画面の端には書きかけの企画書が虚しく点滅している。
ふと、クローゼットの奥に仕舞い込んだままの、数年間一度も開けていない段ボール箱に意識が向いた。
そこには、五年前に失ったはずの「何か」の断片が眠っているはずだ。以前は、その箱を見るだけで、足元が底なしの沼になるような恐怖があった。だが今は、アトリエで感じたあの志乃の沈黙が、背中を押しているような気がした。

真壁は立ち上がり、箱の封印を解く。立ち上がったのは、埃と、時間の経過が酸化させた古い紙の匂い。
それは、あのアトリエで志乃が提示した匂いと、残酷なほど正確に重なり合った。ここに誘うための匂いだったのかもしれない。
箱の底、古い手帳の間に挟まっていた一枚の写真。
そこには、真夏の光の中で眩しそうに笑う、一人の女性の姿があった。

「……結衣」

初めてその名を口にした瞬間、アトリエの換気装置の低音が、耳の奥で再び鳴り響いた気がした。
志乃が、そしてDが「毒になる」と止めた領域。今ならまだ真壁自身も「傍観者」でいられると。

だが、真壁は確信していた。次にアトリエの扉を開けるとき、自分はもはや「傍観者」ではいられないことを。

(第三回に続く)