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小説「渚の調香師」1話③

第三回:記憶の部品


その写真は、真壁の指先の熱を吸い取っていくかのように冷たかった。
自室の机に置かれた「結衣」の姿。五年前、光の中に溶けかけていた彼女の輪郭は、アトリエ渚で嗅いだあの匂い――古い紙束と、乾ききった潮風の記憶――と重なった瞬間、暴力的なまでの色彩を取り戻していた。
 
写真は、数年間の忘却という名の埃を被っていたはずなのに、今の真壁の目には、現像されたばかりのような生々しい質感を湛えていた。彼女が向けている眼差しだけが、真っ直ぐにレンズを、あるいは今の真壁を射抜いている。それは、愛おしさと、微かな諦念が混じり合ったような、名付けようのない光を湛えていた。

翌朝、真壁は会社へ向かう電車の中で、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。吊り革を握る掌が、不自然に湿っている。隣に立つ会社員が纏う安っぽいシトラスの香水が、今は腐りかけた果実のように鼻を突き、胃の奥を不快にかき混ぜる。
オフィスに着いても、真壁はデスクに座ったまま、一度もPCを起動させなかった。モニターの暗い画面に映る自分の顔は、まるで見知らぬ死人のように無機質だ。
「真壁さん、体調悪いんですか?」
後輩の明るい声が、厚い膜の向こう側から聞こえる。その健全さが、今の真壁には耐え難い暴力だった。
「……大丈夫だ。少し、空気が足りないだけだ」
自分でも驚くほど、声が砂を噛んだように枯れていた。

真壁は逃げるように会社を飛び出した。行き先を告げる必要はなかった。足が、蔵前のあの湿った路地を記憶していた。アトリエ渚の扉を開けたとき、室内には前回よりもさらに鋭利な沈黙が満ちていた。


志乃は、いつものように作業台の前に立っていた。そしてカウンターの隅いたキャプテンDと目が合う。志乃に視線を戻すと、今日は瓶を洗う手も、瓶を並べる音も聞こえない。彼女はただ、一冊の古いノートを広げたまま、彫像のように静止していた。

「……これでした」
真壁は震える手で、あの一枚の写真をカウンターの上に置いた。
カチリ、と写真の角が冷たいテーブルに当たる音が、静寂の中で不自然に大きく響く。志乃が、ゆっくりと視線を落とした。彼女の瞳の中に、写真の中の結衣が映り込む。

「この匂いが、僕を壊したんです」
「壊したのは私ではありません」

志乃は写真に触れぬまま、静かに告げた。

「あなたが、その鍵をずっと持っていただけです。私はただ、その鍵の存在を気づかせただけ」

志乃は、作業台の奥にある遮光ガラスの戸を静かに開いた。そこには、整然と、しかし異様な密度で小瓶が並んでいた。
「……ほう、いよいよ調合するのか!」
とDが身を乗り出した。
「これらは私が長年かけてライブラリー化してきた『記憶の部品』。いわば私が解剖してきた、特定の情景を呼び起こすためだけに調合されたベースたちです。この処方箋に沿って部品を混ぜ合わせるのですが、まずは部品から嗅いでいただきます」

志乃は十数本の瓶を取り出し、カウンターに並べた。左手にノートを持ち、その上に処方箋を置いた。手元の処方箋と並べられた瓶を見比べながら、すぐに瓶を選ぶと思いきや、目を閉じと、それからしばし熟考した。

長い沈黙、真壁にはその時間が永遠のようにも感じられる。そして、ようやく志乃は意を決したように目を開き、一本の瓶を選んだ。

「真壁さん、一本目から刺激が強いかもしれせんが、あなたの氷を溶かす匂いです」

一本目の瓶からムエットに滴下し、真壁に差し出した。真壁が鼻を近づけた瞬間、アトリエの空気に鋭い亀裂が走った。

「……っ」

Dが横から鋭く吸い込み、驚嘆を吐き出した。

「おい、これは……雨が降る直前の、死んだ埃が舞い上がる匂いだ。乾いたアスファルトが、降り始めた一滴に驚いて体温を放出した時の、あの噎せ返るような気化熱。志乃、お前、こんな一瞬の物理現象を瓶に閉じ込めていたのか」

真壁は無言で頷いた。しかし、その香りを吸い込んだ瞬間、彼の眉間には深い皺が刻まれた。

志乃はその表情の陰りを見逃さなかった。彼女は何も言わず、手元の処方箋の一部を万年筆で一気に塗り潰した。迷いのない筆致は、まるで不要な臓器を切り捨てる外科医のようだった。彼女はそのまま、沈黙の中で処方箋に新たな何かを書き加えた。

二本目の瓶が差し出される。それは酸化した鉄のような、重く粘り気のある匂いだった。
「……古いインクだ」Dが呻くように言う。「何年も放置され、紙の繊維と癒着した、二度と消せなくなった後悔の匂い。喉の奥に、鉄の鎖を巻き付けられたような閉塞感だ」
真壁の指先が、目に見えて震え始めた。
志乃は真壁の震えを冷徹に観察しながら、再び万年筆を動かした。何かを大幅に削り、別の何かを極限まで書き加える。サリ、サリ、と紙を削る音だけがアトリエに響く。

最後に、志乃は三本目の瓶を差し出した。

「……麦茶か」Dが震える声でその正体を暴く。「だが、これは酷いな。真夏の午後に、氷が溶けきって薄まった、あの寂しい飲み物の成れの果て、ぬるい絶望の匂い......」
真壁は声を漏らした。
「これだ……。この、不純な水の味が、あの時……」

志乃は真壁の告白に頷くこともなく、さらに処方箋を書き換えていた。

「真壁さん。今嗅いだものはまだ部品のままで、あなたの真実ではありません。これから調香するものは、もしかするとあなたを救うのではなく、殺す結果になるしれません......」

「......」

「それでも調香しますか?」

「........お願いします。僕はもう「傍観者」でいたくない!」

志乃は頷き、万年筆が最後の仕上げとして紙の繊維を深く穿つ。
真壁は、そのインクの滲みが、自分の心臓に染み込んでいくような覚悟を覚えた。

(第四回に続く)