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小説「渚の処方箋」1話⑤

第五回:渚の境界線

 

​鼻腔の奥に劇薬が侵入した瞬間、真壁は、自分の足元にあるはずの「現在」という床が消失したのを感じた。

​吸い込んだのは、単なる香りではなかった。それは意識の深層に突き刺さる重い楔(くさび)だった。アトリエ渚の、あの無機質な白い壁が、猛烈な勢いで剥落し始める。蔵前の夜の湿った静寂は、乾いた暴力的な音によって塗り潰されていった。

​ーーー蝉時雨?

​脳を直接揺さぶるような、凄まじい蝉の声。そして、安物のアパートの、震えながら冷風を吐き出す室外機の唸り。視界が開けたとき、真壁は五年前のあの部屋に立っていた。

​窓の外は、茹だるような熱気がアスファルトを焼き尽くしている。しかし、部屋の中は厚いカーテンが閉め切られ、澱んだ空気と無機質な埃が支配していた。真壁の喉の奥には、志乃が仕掛けた「0.3パーセント」が、鈍い痛みとなって居座っている。

​「……麦茶、もういいの?」

​自分の声が聞こえた。ひどく上擦った、落ち着きのない声だ。枕元には、ガラスのグラスが置かれている。氷は完全に溶けきり、ぬるくなった液体が不快な金属の味を帯びている。現在の真壁の口内に広がる「不純な水の味」が、あの日、彼が背を向けた真実と完全に同期した。

​結衣は死んでなどいなかった。

​あの日、真壁は「君のためだ」という嘘を吐き、彼女を狭いアパートに置き去りにして、眩い光の差す方へと逃げ出した。部屋に漂っていた鉄の匂いは、死の予感ではない。彼女を見捨ててドアを閉めた際、良心の呵責から唇を強く噛み締めすぎた、真壁自身の「裏切りの味」だったのだ。

​真壁は、あまりの醜悪さに吐き気を覚えた。彼はこの五年間、その事実から逃げるために、自分を「薄幸の死別を経験した悲劇のコピーライター」へと仕立て上げていた。彼女を心の中で殺すことで、自分の裏切りを「美しい喪失」へと昇華し、その罪悪感を言葉を紡ぐための燃料にさえしていた。

​「ああ……っ!」

​絶叫したつもりだったが、漏れたのは掠れた吐息だった。激しい目眩と共に、真壁は「アトリエ渚」に引き戻された。

​「……僕は、あの日……彼女を救えなかったんじゃない。僕の夢のために、彼女をあそこに置いてきたんだ」

​真壁の独白は、懺悔というよりは、崩壊に近い響きを持っていた。志乃は、相変わらず感情の読み取れない瞳で、その崩壊を見届けている。

​「志乃さん。あなたは……この処方で、僕が自分で殺したはずの『本物の僕』を引き摺り出したんですね」

​志乃は、使い終えたピペットを洗浄液に浸すと、静かに、しかし残酷なほど明晰な声で言った。

​「記憶は、自分を飾るための道具にすればするほど、その下にある魂を腐らせます」

​彼女はカウンター越しに、真壁をまっすぐに見つめた。

​「あなたが求めていた『清らかな夏の思い出』は、ここにはありません。ですが、その『裏切りの味』を抱えたまま生きていくことだけが、あなたが捨てた彼女に対して、唯一捧げられる誠実さです」

​真壁は、震える手でムエットを胸ポケットに収めた。この匂いは、鏡だ。吸い込むたびに、彼は自分の冷酷さを思い出すだろう。だが、その激痛こそが、虚飾の悲劇に浸っていた彼が、五年ぶりに取り戻した「現実」だった。

​「……ありがとうございます」

​真壁は深く一礼すると、逃げるようにアトリエの扉へと向かった。

 

​エピローグ:渚の残り香

​一月後。

真壁のデスクの上には、受理されたばかりの退職願が置かれていた。華やかな広告業界、積み上げてきたキャリア、そして自分を偽り続けることで手に入れた安寧。彼はそのすべてを、蔵前のアトリエに置いてきた。今の彼の手元にあるのは、使い古されたボストンバッグ一つと、小さな袋に収められたムエットだけだ。

​「……死んでなんか、いなかったんだな」

​真壁は独りごち、駅のホームで遠くを見つめた。あの日、自分がドアを閉めて置き去りにした場所。そこから彼女がどこへ向かったのか、風の噂すら聞こえてはこない。それでも、彼は行かなければならない。彼女に許してもらうためではなく、自分が彼女を捨てたという事実を、その瞳の前に立って、今度こそ正しく受け止めるために。かつて夢を追って飛び乗った列車とは違う。今度は、失った「現実」を拾い集めるための旅だった。

 

​同じ頃、銀座。

百貨店のフレグランスコーナーでは、キャプテンDが新作の香水をチェックしていた。

「……ほう。この新作、以前の真壁が書いたような甘ったるいコピーがついているな」

彼は慣れた手つきでムエットをチェックしながら、その香りの構造をインプットした。

「だが、あいつはもうここにはいない。志乃の毒を飲んで、自分の足で泥濘(ぬかるみ)を歩き始めたようだ。……事実は残酷だが、時に人間を遠くまで運ぶものらしいな」

Dは新たな記事の構想を模索する。そこには香水への深い愛と、それゆえに避けては通れない「真実」への渇望が綴られていた。

 

​――蔵前、アトリエ渚。

志乃の日常は、何も変わらない。彼女は朝、ライブラリーの棚を磨き、使い古された万年筆に黒いインクを補充する。窓の外を流れる隅田川の暗い水面を眺めながら、ただ静かに、渚に打ち上げられる新たな「事実」を待つ。

ある日、アトリエのカウベルが、低い音を立てた。現れたのは白いワンピースを纏った女だった。

​「はじめまして、調香師の志乃です」

​志乃の声が静かに響いた。

​「……もう、自分のついている嘘が、何なのかも分からなくなってしまったんです」

​とその女は告げた。

(第一話「処方箋:遡行のための習作」完結)