FREDERIC MALLE
EN PASSANT(2000年)
調香師:オリビア・ジャコベッティ
おすすめ度:★★★★☆


近年、注目のライラック。
そんなライラックの香りの中でも、発売から四半世紀を迎えた「アンパッサン」は、もはや古典的存在といえるかもしれない。またアンパッサンはフレデリック・マル創業時の作品であり、マルのエッセンスが凝縮され、かつマルの作品群の中でも異彩を放っている存在だとも感じている。
アンパッサンとは「通りすがりに」の意味で、そのコンセプトの「そよ風に乗って、ふと漂ってくるライラックの花の香り」が見事に再現された香り。通常マルでは、香りを完成させてから名前を付けるの対して、このアンパッサンは「アンパッサン」という言葉が最初にあり、コンセプトから生まれた極めて例外的な香りとのこと。
オリビア・ジャコベッティとマルが初めて会話を交わした時、2人が幼い頃の共通の記憶として持っていた、爽やかな風にふわりと乗ってくるライラックの香り。ライラックの花のみではなく、花を運ぶ空気も含めたその瞬間を香りにできないか?
記憶や体験を香りで再現する。マルジェラのレプリカなど、今でこそこういうコンセプトの香りはいくつもあるが、当時としてはかなり独創的だったのではと思う。
ではオリビアとマルの共通の記憶、アンパッサンとはどういう香りなのだろうか。
スプレーすると、まずみずみずしくもすっきりとした輪郭のキュウリ調のグリーンと、その中心から淡いフローラルの気配が染められていくイメージ。まだライラックというよりも漠然としたホワイトフローラルの断片で、主役は青色の水気を帯び、少し冷ややかな空気そのものだと思う。春先の籠もった部屋の空気を入れ替えるため、窓を開けた時に吹き込む涼し気な風と、そこに絡まるフローラルの蕾。そんなとても静かなオープニング。
そこから、グリーンの輪郭はウォータリーなトーンとして広がり、それに呼応するようにホワイトフローラルの香りがはっきり見えてくる。ライラックというよりもミュゲのようなグリーンフローラルの香り。ただミュゲほどの硬さはなく、水彩画の淡い緑色の背景に、白色のミュゲを滲ませるイメージが浮かぶ。油絵ならもっと鮮やかにミュゲが描けただろうに、あえてそれを拒絶しているようにも思える。
そしてこのアンパッサンのヒロイン、ライラックが花を咲かせ始める。色味はホワイトライラックで、スパイシーを含んだフローラル感に、ほんのり蜜甘さやパウダリー感と、極わずかインドールを内包させたような香り。ライラックがウォータリーグリーンと調和しながら香り立っている。その自然への表現の美しさにうっとりする。
個人的には、ライラックの美しさを際立てているのはパウダリー感だと思っている。いわゆるコスメティックやリネンのようなパウダリー感ではなく、とてもナチュラなパウダリー感。オリビアが特にこだわったのではと想像する、穀物のようなパウダリー感が、自然の情景をそのまま切り取った香りとして完成されている。ここまでが2時間くらい。
そこから控えめなウッディムスクを漂わすことで、さきほど通りすがったライラックと春の風の匂いが、残り香として肌に溶け込んでいるような印象で、そのままドライダウンしていく。
トータルでは5時間ほど持続する。
ほとんどシングルノートのような香調で、香りは大きく変化しない。一つの情景が、時間とともに少しずつ肌に馴染んでいくような香りだと思う。
エルメスの「庭シリーズ」の原風景のような作品であり、エルメスでは様々な庭が生まれている。しかしマルでのオリビアの作品はこのアンパッサンのみだったため、もっと見てみたかったという思いは消えることがない。
そして、改めてアンパッサンと向き合ってみると、自然への忠実な写実力と、かつての情景を切り取ったがゆえのロマンティックさ、センチメンタルさが同居した香りであり、とてもマルらしいと思える。
そう感じられるようになると、春には決まって手にするに香りとなり、私にとってアンパッサンはもはや通りすがりではなくなった。
自然の中に身を委ね、その中から感じられる匂いに意識を向けながら、想いを馳せる。その矢印はもちろん過去だ。過去から現在に連なる時間を振り返ってみる。春はそういう季節なのかもしれない。



