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小説「渚の処方箋」2話①

​第一回:無菌室のデザイナー


​六月の隅田川は、早くも夏の匂いを孕んでいる。川面から吹き上がる風には、湿った川床の匂いと、アスファルトが熱せられる特有の埃っぽさが混ざり合っていた。

​蔵前の、古びた雑居ビルの急な階段を上る。重い鉄の扉を開けた瞬間、それらの外界のノイズは、活性炭フィルターの低い駆動音によって容赦なく削ぎ落とされた。

そこは、清潔な空白だ。色彩を拒絶したモノトーンのアトリエ。

​「……相変わらず、ここは季節感がないな」

​キャプテンDは、手にした紙袋をデスクに置きながら、声をかけた。

珍しく白衣を纏った調香師の志乃は、部屋の主であるにもかかわらず、こちらの来訪に視線すら向けない。彼女の細い指先は、今、極めて精密なピンセットを握っていた。

実験器具のガラスが触れ合う繊細な音を想像した彼の耳に届いたのは、しかし、ごく僅かな、ねっとりとしたプラスチックの摩擦音だった。

​志乃は、真顔だった。彼女はその鋭い双眸を、理化学ガラスではなく、プラスチックのパックに注いでいた。ピンセットの先で器用に摘み上げられたのは、下町の和菓子屋で買ってきたであろう、琥珀色のタレを纏った「みたらし団子」だった。

​「お皿を汚したくないの。特に脂質と糖分で」

​Dの呆れを含んだ視線を察したのか、志乃は団子を口に運びながら、淡々と、しかし鈴の音のような声で言った。言葉の端々に漂う圧倒的な潔癖さと、その行動の強烈な俗っぽさ。このギャップにDは溜息をつきながら、

​「これだから、調香師の私生活には立ち入りたくない。……ほら、珈琲。豆はグアテマラだ。君の好きな、酸味の少ないノイズレスなやつ」

​Dは何も言わずに、珈琲を彼女のデスクの、邪魔にならない絶妙な位置に置いた。志乃はピンセットを置くと、短く「ありがと」とだけ呟き、その珈琲を口にする。

​「それよりも......」

志乃が珈琲のアロマを静かに吸い込みながら目を細めた。「今回は随分と、荷が重そうなクライアントなのね」

​「それは否定しない。だだ、今日のクライアントは、僕がずっと追いかけてきた美学の持ち主であることは間違いない」

​Dは上着のポケットから、薄型のタブレット端末を取り出し、彼自身が今、最も注目している存在、今日の依頼人を映した。

​――Keiko。

「都会の無菌室」をコンセプトにした、超高級オーガニック・ライフスタイルブランドを率いる新進気鋭のデザイナー。ガラスと純白のリネンに囲まれた彼女のミニマリズムと、彼女が提示するフレグランスは、近年注目を集め、世間は、そしてD自身も、彼女を「汚れなきミューズ」と称賛している。

​「彼女の周りにある言葉、どれも白すぎてとても危うく感じるわ」

​志乃の指摘に、Dはタブレットの画面を起動させながら、微かに唇の端を上げた。

​「そうなんだよ。数週間前に会った時、彼女の纏うジャスミンが不自然なほど過剰になっていた。本来の彼女の引き算の美学から言えば、あれは明らかに異常だ。何かを必死に隠そうとして、香りで防壁を築いているのではと感じたよ」

​Dはスタイラスペンを指先で弄んだ。

​「彼女の防壁の奥にある『ノイズ』を解剖できるのは、僕の言葉じゃない。君の調香だけだと思ってね」

​その時、アトリエのカウベルが、静寂を切り裂くように鳴った。

​鉄の扉が開いた瞬間、外界のノイズを完全にシャットアウトしていたはずのクリーンなアトリエの空気が、一瞬にして、Dの予言通り『過剰な純白』に塗りつぶされた。

(......さらに過激になっている!!)

​香ってきたのは、暴力的ですらある、濃厚なジャスミン。

何千、何万もの白い花弁を、一切の不純物を除いて絞り尽くしたかのような芳香。無菌室のミューズが纏うには、あまりにも息苦しい拒絶の香りだった。

​逆光の中に立っていたのは、白いリネンのワンピースを纏ったKeikoだった。彼女が歩を進めるたびに、重苦しいほどのジャスミンがアトリエを浸食していく。

​志乃はピンセットを置き、白衣の襟を正して彼女を迎え入れた。その瞳には、すでにDの言葉の意味を理解した、冷静な光が宿っている。

​「はじめまして、調香師の志乃です」

​志乃の声が静かに響いた。

その瞬間、張り詰めた糸が切れたように、Keikoの完璧だったはずの微笑みが、痛々しく歪んだ。彼女は縋るような目で志乃を見つめ、青ざめた唇を震わせる。

​「……もう、自分のついている嘘が、何なのかも分からなくなってしまったんです」

​とその女は告げた。

 

​「汚れなきミューズ」と呼ばれた女性の口から溢れ出たのは、洗練されたプレゼンテーションではなく、ひどく無防備な悲鳴だった。

​志乃は表情を一切変えず、ただ静かに視線で椅子を示すと、Keikoはまるで糸の切れた人形のように、吸い込まれるようにそこへ腰を下ろす。

​Dのタブレットとは対照的に、志乃はデスクから万年筆とノートを取り出すと、ただ無言でKeikoを凝視した。

​「詳しく聞かせてください。あなたのブランドの理念ではなくて、あなたの鼻が捉えている事実を」

​志乃が万年筆を軽く弄びながら、冷徹に促す。

​Keikoは白いワンピースの膝の上で、細い指先を強く擦り合わせながら話し始めた。彼女の手元からは、相変わらず窒息するほどに過剰なジャスミンの香りが立ち上っている。しかし、彼女の言葉は、その高貴な香りを裏切るように歪んでいた。

​「私の主宰するライフスタイルブランドは、ガラスと純白のリネンのような、都会のノイズをすべて排除した、完璧にクリーンな世界を目指しています。みんなが、私の世界を『完璧に美しい』と言って褒めてくれる。でも……」

​Keikoは喉を詰まらせ、自分の両手を見つめた。

​「一ヶ月ほど前からです。どれだけ手を洗っても、どれだけオフィスを除菌しても、消えないんです。どこからか、ひどく冷たくて湿った、暗い『生泥の匂い』が、私の指先から這い上がってきて離れないの。まるで、私が泥塗れの怪物にでもなってしまったかのように……。この匂いのせいで、私の築き上げた完璧な空間が、全部汚されてしまいそうで怖いんです」

​画面にスタイラスペンを走らせていたDの手が、一瞬、止まった。

​世間が彼女に求めているのは、一点の曇りもない都会の「白」だ。もし彼女から泥の匂いが漂っているという噂が立てば、彼女の美学は一瞬で崩壊する。

​Dはタブレットの画面を見つめたまま、低く重みのある声で言った。

​「彼女のブランドの美学は本物だ。ただの流行じゃない。現に、彼女のデザインは多くの人の乾いた生活を救っている。……志乃、彼女の五感を狂わせている原因を、突き止められるか」

​志乃は表情を変えることなく、カリ、と、静寂に硬質な金属音が響びかせ、ノートに何かを書き込んだ。

​「D、彼女が恐れているのは、現在のノイズではなくて、本当に恐れているのは――」

​志乃の鋭い視線をKeikoに向けると、

​「その消えない泥の匂いに心当たりがありますよね?」

​ノートに滲む黒いインクが、Keikoの隠された過去の輪郭をなぞるように、静かに、深く広がっていった。

​(第二回に続く)