
第二回:洗練の解体
「その消えない泥の匂いに心当たりがありますね?」
志乃の言葉は、アトリエの無機質な活性炭フィルターの駆動音に混ざり、硬質に響いた。
椅子の上で、Keikoの身体が一瞬、微かに強張ったように見えた。しかし、彼女はすぐにその完璧な、陶器のような微笑みを顔に張り付かせた。世間の羨望を一身に集めるデザイナーとしての防壁が、驚異的な速度で修復されていく。
「……さすがは、Dさんが信頼を寄せる調香師の方ですね」
Keikoは滑らかな声で言った。彼女が唇を動かすたびに、彼女の周囲にだけ、過剰なまでの純白のジャスミンがゆらりと揺れる。それはまるで、彼女という存在を外界から保護するための、目に見えない結界のようだった。
「ええ、あります。心当たりなら、嫌というほど」
彼女は白いリネンのワンピースの膝の上で、そっと自らの指先を見つめた。その指は細く、爪は短く均一に整えられ、一点の曇りもない都会の洗練を体現している。
「私の実家は、地方の山奥にある古い陶芸の窯元なんです。何代も続くような、因習的で、閉鎖的な家でした。幼い頃の私の記憶は、いつも薄暗い工房の、あの冷たくて湿った重い泥の匂いと結びついています。毎日毎日、泥を捏ね、爪の隙間まで土の垢で真っ黒にして、そんな父の背中を見ているだけの暮らし。私は、そこから逃げ出したかった。あの泥まみれの生活が、私には耐えられなかったんです」
Dは、手元でスタイラスペンを滑らせるのを止め、静かに彼女の横顔を見つめた。
タブレットの画面には、Keikoの経歴が並んでいる。そこには『地方の伝統的な美意識に触れて育ち、都会でその感性を昇華させた』と、美しく一表にまとめられた「言葉」が並んでいた。いま彼女が語っているのは、その華やかな経歴の裏返しの剥き出しの真実だ。
「だから私は、すべてを捨てて都会へ出てきました。ガラスと純白のリネン、そして一切の雑味のないクリーンな空間。それだけが、私をあの暗い窯元から救い出してくれる光だった。私は、自分の力で、泥まみれの過去から完璧に這い上がったんです。なのに……」
Keikoの言葉に、にわかに熱が帯びる。その整った胸元が上下し始めた。
「今になって、あの男が私の前に現れました。ブランドの立ち上げ時に、少しだけ資金を融通してもらった元ビジネスパートナーの男。彼は、私のこの『汚れなきミューズ』としての地位やブランドを妬み、私の隠したい過去や、実家の窯元の泥臭い話を世間に暴くと画策して、執拗に脅迫してきている。……私はあの男が許せない。私の築いた、この汚れなきガラスの城を、あの男の汚い足で踏み荒らされるなんて、絶対に耐えられない……!」
彼女の手首から、波のようにジャスミンの香気が立ち上る。それは恐怖と怒りによって、より一層、暴力的な濃度を増しているようだ。
志乃の万年筆のペン先がノートの上でピタリと止まった。
ノートには、『窯元』『ジャスミン』『脅迫者』など、単語が無機質に並んでいる。志乃は万年筆を指先で一回転させると、それをデスクへ放り出すように置いた。コト、という硬い音がアトリエに響く。
「とても綺麗に整えられた話だと思います。感心してしまうほどに」
志乃の声は、まるでガラスの表面を滑る刃物のように冷たかった。
「私には自分の過去を『被害者』という便利な言葉でコーティングして、現在の怒りを『正当防衛』という美学で飾り立ているように思えます。……D、あなたなら美しく劇的に仕立てるかもしれないけど......」
不意に矛先を向けられたDは、タブレットの画面から視線を上げ、志乃をまっすぐに見据えた。彼の指先はスタイラスペンを強く握ったままだ。
「言葉だけの偽善なら、僕はとっくに席を立っているさ......」
Dは一呼吸置いて
「......ただ、世間は彼女のブランドを『無菌室』と呼んで消費しているけれど、彼女がガラスとリネンで構築したミニマリズムの空間は、小手先の誤魔化しではない。そこには、生半可な覚悟では辿り着けない、狂気的なまでの『引き算の美』がある。彼女が過去を捨てて掴み取った現在の美学は本物だ。それを、ただの『嘘』や『自己弁護』の一言で片付けるのは賛成できないよ」
Dは、Keikoという表現者が命懸けで作り上げた「白」の価値を認めている。だからこそ、その美学の綻びをただの醜聞にしたくはなかった。
志乃は、Dの強い眼差しを真っ向から受け止め、微かにほほ笑んだ。
「もちろん私も彼女の美学を偽物だなんて思ってないです。私が言っているのは――彼女のその『白』が、何によって支えられているかという話です.....」
志乃の視線が、再びKeikoへと戻る。
「Keikoさん。あなたは、あの男にガラスの城を踏み荒らされることを恐れていると言ったわね。でも、本当にそうなんですか?」
「……え?」
Keikoの顔から、血の気が一瞬で引いていく。
志乃の眼光が、Keikoの「手元」へ、まるでピンセットで異物を摘み上げるように鋭く注がれた。
「さっきからずっと、自分の爪の隙間を擦り合わせていますね。皮膚が赤くなって、今にも血が滲みそうなほど強く。……いくら洗っても消えない泥の匂い。それは、過去から追ってきたノイズなんかではなくて、今、この瞬間に、あなたの指先から溢れ出ているものですよ」
「そんな……私は、あんな泥まみれの場所、二度と……!」
「いいえ。あなたの身体は、あの窯元の泥を、何より深く求めているわ」
志乃は万年筆とノートを持ち直すと
「わかりました。調合を始めましょう。……あなたが本当に求めている、最も獰猛な香りの調合を」
(第三回に続く)



