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小説「渚の処方箋」2話③

第三回:美と醜の調合

 

​アトリエの空気が、一段と張り詰めた。

​「わかりました。調合を始めましょう。……あなたが本当に求めている、最も獰猛な香りの調合を」

​志乃はそう言うと、迷いのない足取りでデスクを離れ、棚の前に立つと、三十本弱のガラス小瓶を選び、そのまま作業台へと向かった。白衣の袖を無造作に肘の上までまくり上げる。その細い手首が、外界の光を拒絶したモノトーンの空間で白く発光しているように見えた。

​デジタルスケールの上にビーカーを置き、ノートを確認しながら、スポイトを使ってガラス小瓶から次々にビーカーに液体が注がれていく。ここからは志乃の領域であり、アトリエは「静謐な手術室」へとその姿を変貌させる。

​十分後、作業台の中央に、一点の曇りもないビーカーを据えた。

​「まずは、あなたの現在の『防壁』から組み上げてみます」

​志乃がガラス瓶から吸い上げたのは無色透明な液体、それがビーカーへ一滴、落とされる。

​パチ、と微かな爆発音が脳内で響くような、錯覚を覚えるほどの硬質な香気。それは、冬の朝に凍りついたガラス窓に触れたときのような、肌が粟立つほどの人工的な冷気だった。色彩という色彩をすべて剥ぎ取り、人間の体温すら拒絶するような「完全なる無臭の白」。

まさに世間が注目する、Keikoがガラスとリネンで築き上げた「都会の無菌室」そのもののイメージが、鋭利な匂いとなって空間に満ちていく。

​Dは、その冷気が皮膚に触れるのを感じながら、静かにタブレットの画面を凝視していた。

​「……完璧な無菌室だ。相変わらず、容赦のない再現性だな」

​「これからよ、この白の檻の中に、彼女が必死に纏っている『嘘』を閉じ込めるの」

​志乃は冷たく微笑みながら、次の、そして今回の主役である小瓶に手をかけた。ラベルにはただ、手書きの文字で『Jasmine』とだけ記されている。

​志乃がその小瓶のキャップを捻った瞬間、Dの鼻腔が微かに震えた。

​世間一般が想像するジャスミンの香り――初夏の風に揺れる、軽やかで清楚な白い花のイメージ。しかしすぐに、そんな生易しいものは、そこには一切存在していないことに気づいた。

瓶の口から現れたのは、光を吸い込むほどに重く、ねっとりとした「暗い黄金色」の液体。それはまるで、何万もの白い花弁を力任せに圧搾し、その肉体から絞り出された「血」のようでもあった。

​志乃がスポイトを傾け、黄金色のドロりとした一滴が、先ほどの無菌の冷気のなかに滑り落ちる。

​その瞬間、アトリエに、めまいを覚えるほどの濃厚で、肉感的な芳香が爆発した。それはあまりにも官能的で、そして、どこか息苦しいほどの拒絶を孕んだ「狂気の純白」だった。

​画面の上でスタイラスペンを強く握り直しながら、Dは自らの脳内にある香りの記憶を、静かに手繰り寄せ始めていた。

​(この至高の美しさの底には、ある致命的な『汚泥』が沈殿している――)

​Dは、ビーカーから立ち上る重苦しいほどの純白を吸い込みながら、静かに目を閉じ、鼻先に咲くジャスミンの香りに集中した。

(ジャスミン特有の糞便臭のみではない、むしろ腐敗した生ゴミや、あるいは生物の死臭など、目を背けたくなるようなそれらの醜悪な汚泥の匂いすら内包している。まるで​美の底には、常に、目を背けたくなるような醜が沈殿していると主張しているようだ)

​「ねえ、D」

志乃が、様々な遮光瓶から液を取り出し、調合しているさなか、ビーカーをふらふらと軽く揺らしながらDに語りかけた。

「彼女の纏うジャスミンが、なぜこれほど過剰で、息苦しいのか。あなたなら、もう言葉にできるでしょう?」

​Dはゆっくりと目を開け、タブレットの画面を静かに見つめた。

​「……彼女は、自分の中にある『醜』を、同じ匂いを持つ『美』の防壁で、必死に蓋をしようとしているんだ。実家の窯元の泥の匂いという醜悪を、同じ泥の因子を持つジャスミンの純白で、相殺しようとしている」

​「いい読みだけど、まだ甘いわ」

​志乃は薄く笑うと、作業台の最も暗い隅から、ひとつの小さな小瓶を引き寄せた。

その中身は土のような漆黒の粉体。​それは、薄暗い湿地から抉り取ってきたかのような、黒く、冷たく、水分を含んだ「本物の生泥」ように見えた。さらに志乃は、大地の底の湿り気そのものを閉じ込めたような、暗褐色のパチュリの精油で、その粉体を溶かし始める。

​「いや、志乃、それは――」

​志乃は容赦なく、それをビーカーの黄金色の液体へと叩き落とした。

​バサ、と重い音がアトリエに響く。

​一点の曇りもなかったビーカーの中で、墨汁が跳ねるように、黒い濁りが一瞬にして広がった。美しく澄んでいた黄金色の液体が、怪しく、暗黒に染められたと見粉うような暗緑色の液体として収れんされていく。

​その瞬間、アトリエを満たしていた完璧な純白のジャスミンが、内部から「捕食」されるように変質した。

雨の日の古い地層、薄暗い窯元で、何代もの人間の執念に捏ねられ続けてきた、冷たい生泥の匂い。それが、ジャスミンの狂気的な芳香と完璧に融合し、アトリエの空気をねっとりとした重さで支配していく。

​美しい聖女の皮を剥ぎ取った後に現れる、怪物の産声のような匂い!

​志乃は、暗緑色に濁ったビーカーをガラス製の細い撹拌棒でそっと揺らした。ビーカーの中で澱んだ液体が、ねっとりとした不穏な弧を描く。

​「完成しました」

​志乃はビーカーを揺らす手を止め、その鋭い双眸を少し見上げるようにして、Dへと向けた。

​「あなたの連れてきた愛しいミューズは、ガラスのコーティングを剥がされて、中からこんなに真っ黒な泥が溢れ出ている」

​Dはスタイラスペンを指先で弄びながら、ふっと静かに、しかし底知れない笑みを唇の端に浮かべた。

​「香料がどれほど濁っていようと、そこに宿る美学が本物なら、僕はそのすべてを言葉に閉じ込める。彼女が隠したがっているノイズすべても。それ以外の退屈な、誰にでも書けるような物語なら、僕がここにいる意味はない」

​その確かな重みを持った言葉に、志乃は一瞬だけ目を見張り、うなずくと

​「あなたがいてくれて良かった。かなり荒っぽいやり方ですが、彼女の『本当の顔』を見に行きましょう」

​志乃はデスクから、真っ白な一本の試香紙(ムエット)を取り出した。それをビーカーの暗緑色の液体に浸す。

純白だった紙の先端が、じわり、と墨汁を吸い上げるように黒く染まっていく。

​志乃はその濡れた紙片を指に挟み、椅子でじっと俯いているKeikoの前へと歩み寄った。Dもまた、彼女の背後から静かに付き従う。

​「お待たせ、Keikoさん」

​志乃の声が、冷徹に響く。

​「これが、あなたの本当に求めていた香りの答えです。……自分の爪の中に隠しているものを、思い切り吸い込んでください」

​差し出された、黒く染まった紙片。

Keikoは怯えるように、しかし吸い寄せられるように、ゆっくりと顔を上げた。

(第四回に続く)