
第四回:爪の中の窯元
アトリエのクリーンな空気の中で、その黒く染まった紙片だけが、異物のように生々しく存在していた。
Keikoは震える指先で、志乃の手からムエットを受け取った。その短い爪の隙間を、彼女はまだ無意識に、肉に食い込むほど強く擦り合わせている。
「さあ」
背後から、Dの低く落ち着いた声が届いた。その声は、彼女を追い詰めるためのものではなく、むしろ、これから直面する現実から決して目を逸らすなと、彼女の背中を支えるような、静かな強制力を持っていた。
Keikoは意を決したように、深く、その黒い紙片から立ち上る匂いを吸い込んだ。
その瞬間。
彼女の脳内で、猛烈な「色の爆発」が起きた。
都会の無菌室。ガラスの城。純白のリネン。それまで彼女を完璧に守っていた「白」の防壁が、まるで乾燥した漆喰のように、音を立てて激しく剥落していく。
鼻腔を突き抜けたのは、ジャスミンの甘美な芳香を完全に喰らい尽くすほどの、圧倒的な大地の執念だった。
冷たく湿った生泥。何代もの人間が泥にまみれ、こねくり回し、火のなかに放り込んできた、一族の、実家の窯元の暗い匂い。
(ああ、これだ――)
彼女の脳裏に、記憶の濁流が押し寄せる。
だが、そこに浮かび上がったのは、志乃に語ったような「因習に縛られた可哀想な被害者」の姿ではなかった。
蘇ったのは、一ヶ月前。あの元ビジネスパートナーの男が、彼女のオフィスに現れ、過去をバラすと脅迫してきた、その瞬間の記憶。
男は、彼女の築き上げた洗練を「泥の手で触るぞ」と脅した。その時、彼女は恐怖で震えてなどいなかった。彼女の五感が鮮明に記憶していたのは、男の卑屈な笑みを見つめながら、自らの脳内で、冷徹に、そして完璧なまでの歓喜を伴って弾けた「ある計画」の全貌だった。
男を、自らの完璧なブランドの力を使って、社会的・合法的に、最も美しく圧殺、復讐するための筋書き。
男が自滅するように仕向けた、一点の曇りもない、合法的な悪意のシナリオ。
(私は、怯えてなんていなかった。私は、あの男を徹底的に叩き潰せることに、歓喜していた――)
洗っても、洗っても消えなかったあの泥の匂い。
それは、男の脅迫というノイズによってもたらされたものではなかった。彼女自身が、自らの爪の隙間に、本能的に飼い続けていた執念の匂いだったのだ。
「私は……」
Keikoの唇から、乾いた声が漏れた。
彼女の両眼が、かつてないほどにギラギラとした、生々しい光を放ち始める。
「私は、あの泥まみれの窯元から、一歩も抜け出してなんていなかった……。あの場所で、誰よりも冷酷に泥を捏ねていた父の血が、私の中で、今もこんなに脈打っている」
完璧だった聖女の微笑みが、今、完全に崩壊し、その奥から獰猛な「怪物」の輪郭が、アトリエの闇のなかに浮かび上がろうとしていた。
「私は、あの男を……合法的に、一番綺麗な方法で、圧殺しようとしていた」
Keikoは自らの言葉に引き裂かれるように、その場に激しく膝を突いた。
白いリネンのワンピースが、冷たい床に無造作に広がる。世間が「無菌室のミューズ」と崇めたその身体が、いまや激しい呼吸で醜く歪んでいた。
「私はクリーンな世界で生きたかったはずなのに。一方であの薄暗い窯元の、ドロドロとした執念のなかで、誰よりも人を呪いながら泥を捏ねていた父と同じ顔をして、あの男を陥れる筋書きを磨いていたのよ……!」
彼女は床に両手を突き、狂ったように自らの指先を見つめて、崩れ落ちた。
ジャスミンの防壁は完全に消え去り、いまや彼女の全身からは、湿った古い地層のような、生々しい泥の匂いだけが立ち上っている。それは、彼女の隠された本性の匂いだった。
志乃は、床に崩れ落ちた彼女を、一歩も動かずに見下ろしていた。その瞳には、哀れみも、軽蔑もない。ただ、極上の標本を観察するような、冷徹な瞳。
「自分の爪の中に、ずっと牙を隠していた。それを『被害者の涙』で覆い隠して、『汚れなきミューズ』という上質なラッピングで、世間に認めさせていたのね」
志乃の容赦のない言葉が、絶望するKeikoの背中に突き刺さる。自分は、自ら築き上げたガラスの城を、自らの泥にまみれた手で汚してしまったのだと、Keikoは浅い息を繰り返した。
その時、彼女の視界に、Dが静かに歩み寄ってくるのが映った。彼はタブレットを小脇に抱え、床に伏せる彼女の前に、ゆっくりと片膝を突いた。
Keikoが、涙に濡れた目で彼を見上げる。「私を、軽蔑するでしょう。私は泥塗れの嘘つきよ……」
Dは、彼女のその絶望を、静かな眼差しで真っ向から受け止めた。
アトリエの薄暗がりのなか、彼の手元にあるタブレットの仄青い光が、二人の顔を等しく照らし出している。
「嘘つき、か」
Dは低く、しかし驚くほど穏やかな声で呟いた。その声には、彼女を責める響きなど、微塵も含まれていなかった。彼は床に片膝を突いたまま、彼女と完全に目線を合わせ、ふっと苦笑を浮かべた。
「僕は正義の味方でもなければ、聖女のファンでもない。匂いそのものにしか興味がない、ひねくれたものの、ただの香水ブロガーだ」
彼はスタイラスペンを一本の指で弄び、タブレットの画面に視線を落とした。そこには、彼女が今まで世間に見せてきた、ガラスのように繊細な言葉の数々が光っている。
「君がその男を社会的、合法的に圧殺しようとしていること。それほどの冷徹な悪意と執念がなければ、泥まみれの窯元から這い上がり、都会にあの完璧な『引き算の美学』を構築することなんて、到底不可能だったはずだ」
Dは再び顔を上げ、彼女のギラギラとした、しかし怯えを孕んだ瞳をまっすぐに見つめた。その眼差しは、すべてを受け止めるように深く、そしてどこか残酷なほどに、表現者としての色気を帯びていた。
「君の美学は、その爪の隙間の泥の執念という強固な土台があって初めて立っている。自分を怪物だと呪う必要はない。それが君という表現者の『真実の姿』だ」
「Dさん……」
「逃げずに、ステージに戻るんだ。君がどんな怪物になろうとも、僕はその怪物の恐るべき美しさに触れたい」
Dの言葉は、崩壊しかけていたKeikoの足元に、新しい、より強固なアイデンティティの礎石を叩き込むようだった。彼女の瞳から涙が消え、代わりに、泥を力に変えるような「気高い復讐者」の覚悟が宿っていく。
背後で見ていた志乃が、
「……いい台詞ね。あなたの言葉は私の調香よりもタチが悪いわ」
志乃はそう言うと、デスクの引き出しから、まだ何も貼られていない、透明な小さな香水ボトルを取り出した。その中には、先ほどの暗緑色の混濁から限界まで濾過した、怪しくも洗練された、新しい液体が満たされていた。
「keikoさん、あなた自身の香り『 Vertu de la Boue 』……『泥の徳』よ」
そういうと、志乃は香りのタイトルを書き込んだラベルを貼り、そのボトルをDとKeikoに差し出した。
(第5回に続く)



