KILIAN
BEYOND LOVE, Prohibited(2007年)
調香師:カリス・ベッカー
おすすめ度:★★★★★
画像:FRAGTANTICA、公式HP
ビヨンドラブは、キリアンは始まりの6作品のうちの1品。フレグランスに関わらず、デビュー作には、その作者の精神や目指すべき方向性が示されていることが多い。そしてビヨンドラブにも、キリアンのフレグランスへの想い、香り、素材、ストーリーへのこだわりや世界観などが込められた作品に仕上がっている。
今ではこの6作品で残っているのは、ラブードンド ビー シャイ、リエゾン ダンジェルーズ-ティピカル ミー、ストレート トゥ ヘブンーホワイトクリスタルのみで、残念ながらビヨンドラブは詰め替え用のみが残されている状態で、さらにいえば元々日本未発売だったため、今後触れるチャンスますます少なくなってしまう香りだ。
元々ビヨンドラブは、ルーヴルノワール(愛が描く甘い誘惑の世界)からの作品だったが、現在は ザ・ナーコティック(華やかで官能的なフローラルノートのコレクション)に収められている。
ビヨンドラブは素晴らしいチュベローズの香りで、個人的には、チュベローズをほぼそのまま使用したフレグランスは、もはやこれ1本あれば充分だと満足するくらいの傑作だと思っている。
トップはフローラル・グリーン。
スプレーした瞬間、ハーバルな硬さを含んだみずみずしいグリーンノートと、少し遅れてピーチの表情をした柔らかいチュベローズの香り。そのフレッシュな若々しさや可愛らしさにエスコートされるように、チュベローズの華やかな花の香りがパッと広がっていく。
ミドルはホワイトフローラル。
鼻先はフレッシュなピーチを立たせながら、チュベローズがどんどん濃くなってくる。濃厚なチュベローズの香りの一言に尽きる。これだけチュベローズが濃いと、チュベローズのスパイシー的なえぐみや、フローラルのコク甘さまで出てしまうのに。ところが、スパイシー部分をグリーンやピーチのベールで覆うことでどこか可愛らしく魅せ、フローラルのコク部分は、みずみずしいマグノリアを含ませたジャスミンが透明感を与えていく。いつかいでもこのチュベローズの表現に魅了される。
やがて、チュベローズよりもジャスミンが前に出ることで、ジャスミンの官能的なマニマリック部分もはっきりしてくると、今度はココナッツの白い甘さがまるで人肌のようにマイルドに整えていく。このミドル後半の、キュートなチュベローズの甘さ、みずみずしいジャスミンの酸味、クリーミーな白さが折り重なった瞬間こそが、この香りのクライマックスだと思う。
ベースはアンバー・ムスク。
そのクライマックスの酸味や甘さが、少しアニマリックなアンバーやムスク、パウダリーなムスクと調和していくことで、まるで肌に溶け込んでいくようにドライダウンしていく。
フレッシュなチュベローズから、可愛らしさやみずみずしさに包まれたチュベローズが3~4時間、それらが肌に馴染んでいくながら全体では8時間近く持続する。時間が経てば経つほど、まるで肌と一体になるように、香りが良くなっていく。
チュベローズを中心とした、あまり季節を問わない香り。それではもっとも似合うのは夏の夜、そして晴れた春の日だと思う。
ビヨンドラブはチュベローズの完成形と考えると、キリアンの代表作グッドガール ゴーンバッド(2012年、以下GGGB)はビヨンドラブ マーク2と言っても差し障りがない。ビヨンドラブに光と影を与え、一つの物語として創り上げた作品こそがGGGBであり、GGGBのチュベローズの好きならば、ビヨンドラブ一度は触れるべき香りではと思える。
ビヨンドラブと並ぶチュベローズの傑作、ドミニク・ロピオンのカーナルフラワー(2005年)と比較してみる。
ビヨンドラブはラブはチュベローズのアブソリュートを7~8割そのまま残しながら、ピーチやグリーン、ジャスミンやマグノリア、ココナッツやムスクを加えることで、チュベローズのフレグランスアレンジとして見事にまとめ上げている。
一方でカーナルフラワーは、同じくチュベローズを7~8割使いながら、フレッシュなハーバルやみずみずしいグリーンを加えることで、チューベローズの花に驚くほど忠実なフレグランスを創香している。目指すべきゴールが異なるだけで、どちらもチュベローズに対してリスペクトが強く感じられる。
それでは、なぜキリアンはこのチュベローズの香りをビヨンドラブと名付けたのだろうか。
実際に、チュベローズのアブソリュートをかいでみると、例えばローズやジャスミンのアブソリュートのように、フローラルノートとしての美しさのみではなく、かなりスパイシーグリーンやワックスなどの粗が鼻に付く。官能的ではあるものの美しさに欠ける。
ビヨンドラブには、プロヒビティッド(禁じられた)という副題が添えられている。
本当の愛の喜びは、ローズやジャスミンのような絵に描いたような美しい恋愛の先にではなく、むしろもっとどろどろした、それこそ禁断の愛の先にこそ存在する。そんな意味を込めたのだろうか。